狐のお茶会

　頭の上に付いた大きな耳、ふわりと揺れる9本の柔らかな尻尾。



　普段、自分の研究室と私室、ミカエルの執務室への往復の時くらいしか部屋の外には出ないクズノハだが、その長い銀髪や露出度の高い服で闊歩する長身は、皆が振り返る程の美貌を放っている。

　月色の塔に於いて、クズノハに憧れる職員や研究者は、少なくない。
テラに来たばかりの頃は少年のような風貌で女性達の興味を惹いたが、艶やかな女らしさを備えた今では、男女を問わず羨望の的であった。

　テラでのクズノハの活躍は、それまで腐った風のように月色の塔を覆っていたヘテロサピエンス蔑視の風潮を徐々に変え始めていた。

　(これもミカエル殿のお陰じゃ…)と想う。
　当時、若き統治者の愚行だと揶揄されながらも、何のコネもない自分をメインサイエンティストとして認め、テラへと招いて下さったミカエル殿。
　(あの方の志しのためなら、わしはどんな協力でもしよう。)

　そんな風に考えながら、暗い廊下を歩く…。
　しかし自分について、溜め息モノの噂が流れている事も承知している。
　『実はミカエル殿とわしが付き合っていて、ただならぬ関係にあるから、わしの体が女性らしく変化した』…と言うモノだ。

　(冗談ではない!わしは未だに、この想いすら告げられずにいる！付き合えるモノならそーしたいわっ!!)

　しかし、ミカエルに恋焦がれる乙女達から、嫉妬に満ちた嫌がらせや、脅迫状が後を絶たない事には閉口する。
　「その様な時間があるなら、何故あの方のために働こうとせぬのか…」
独り言と共に握った書類を見やる。

　マリアの記憶のデータ化に関する微細な報告書だ。
これを一刻も早く見せたいと思い、ミカエルの部屋の前までやって来たが、通路の暗さに　ふと、足を止めた。


　「し…しまった!もう午前2時であったか!?」
　さすがに失礼だと思い、踵を返そうとした時に部屋の隙間から漏れる灯りに気が付いた。

　ごく小さくノックするとすぐにドアが開いた。


　シルク地の黒い寝間着姿で現れた部屋の主に猛烈に動揺する！
　(ひゃああ～!!ミ…ミヒャエル殿…白いバスローブとかじゃないんだ～!?) ←何だろうか？この勝手な妄想はっ!?

　「あ…あのっ…夜分に失礼かとは思うたのじゃが、記憶のデータ化の50％が完了した故…」
　これは予想外の成果であったらしい。ミカエルは一瞬、目を見張り それから「ご苦労。今日はゆっくり休んでくれ！」…と労をねぎらい書類を受け取った。

　閉じられるドアに慌てて声を掛ける。


　「あのっ…ミカエル殿はもうお休みですか？」 　


　「…いや？少しお茶を飲んで、暫く読書をするつもりだが…ん、キミも何か飲むか？」
　「は…はいっ!!」
　(キラ～～ン)

　思わず声が裏がえり、目に星的なモノを浮かべてしまった。
　ミカエルは部屋にクズノハを通し椅子に座らせると、再び、ドアの所へ　とって返し、扉を最大限に廊下側に押し開けた状態で固定した。


　この『密室にしない行為』は勿論、このような時間帯に女性を部屋に入れる事に対する、ミカエルの紳士的配慮に他ならないのだが…

　「チッ…」
　クズノハ、なぜか小さく舌打ち！

　やがて、フワリとカフェインの香りが鼻をくすぐり 目の前にカプチーノが置かれた。
横にオレンジピールと小粒のダークチョコレートが添えられている。


　「 ザクロが就寝中なので私が淹れたインスタントだが…」
　「そ…そんな、ミカエル殿が淹れて下さったカプチーノなんて、勿体無くて飲めませんっ!!……あ、いや！飲みますけど！」

　「フッ…どっちなんだ？」


　僅かに見せたミカエルの柔らかな笑みに ドキン と心臓が反応する。


　椅子と机をクズノハに明け渡したため、ミカエルは直接ベッドに腰を下ろした。こんなふうに差し向かいで仕事以外の話をするのはサイドテラ以来になる。


　「キミには下らぬ噂で迷惑を掛けてしまったようだな…。」とカップを手に、済まないといった表情のミカエル。

　「 は？」


「 ザクロからの報告で私とキミが　゛不適切な関係にある"　と吹聴するバカが居るが、解雇しますか？　…と問われたのだ。」

　「あ…はぁ…。」

　気恥ずかしさのあまり思わず俯くクズノハ。赤面してしまって、目を合わせられない。
　「全く…色恋沙汰のゴシップなど、誰が信じるのだ？もとより、色恋などという感情は脳が見せる幻覚にすぎない。脳の専門家であるキミは、そんな感情 信じてはいないだろう？」



　トクンっ!!



　―　―心臓が……止まりそうになった…。―　―


　（ミカエル殿の悩み事は自分の悩み事であり、ミカエル殿の痛みは自分自身の痛みであった。
　ミカエル殿が悲しい時は同じように悲しく、お喜びの時は、自分の事のように嬉しかった。）


　―　―恋だろうと……思う―　―


　（この感情が幻覚だと言うなら、わしはもう…何年も幻覚を見続けている事になる…！）

　（どんなに切ない視線を送っても、きっとミカエル殿は お気づきにはならないだろう…。）


　「あの…」

　やっとの思いで声を絞り出す。(さっきの質問には答えられないので話しを逸らす。)
　「今夜は、ここに居座っても よろしいか？…読書の邪魔は致しませぬ故…」


　「ふっ…確か私は、サイドテラにキミを説得に行った際、似たような事を言ったな。 邪魔はしないから、暫くここでサイドテラの空気を感じたい…と。」

　ミカエルはそう言って頷いた。

　やがて、カプチーノが冷め、上方に上がる湯気が すっかり消えてしまっても二人は ただ静かな時間を共有した。




　ピピ…チチチ…




　鳥のさえずりとフワリとしたシーツの感覚で目が覚める。クズノハはミカエルのベッドの上で寝ている事に気づき、慌てて飛び起き周りを確認したが、ミカエルの姿はなく着衣に乱れもなかった。


　「残念！」(えっ!?)

　「きっと、途中で寝てしまった わしをお姫様抱っこで運んでくれたのだろう。お…お姫様抱っこ!?ひゃああ～～!!」
　↑(だから何だろうか？この妄想は！？)



　　バタン！

　と、突然ドアが開けられザクロが朝食を手に乱入して来た！


　「博士に部屋で寝ているクズノハに朝食を作ってやれと命令されました！何故貴方なんかが博士の私室にぃ～!？」

　「い…いや！誤解じゃ！わしらは何でもない…」
　「当たり前ですっ!! 私の博士がヘテロサピエンスなんかに手を出す訳がないでしょう！？」
　「わ…私のって…」


　　スッ！

　ザクロがクズノハの鼻先に朝食を突き出す！

　「いいですか？この朝食には毒を盛りました！食べたら笑いが止まらなくなりますよっ!?失礼！」



　　バンっ!!
　大きな音と共にドアを閉めザクロは、ぷりぷりとしながら退室して行った。

　恐る恐る毒見をすると、朝食は言葉に反して暖かく、とても美味しかった。

　あの方の部屋であの方の私物に囲まれ考える。
　（今朝も早くから様々な重責を担い研究を続けるミカエル殿…。
　普段はあまり、優しさを表に出す方ではないけれど…）


　空になったカプチーノのカップをそっと指でなぞる。


　わしは、この方の事を、どうしようもないくらい好きなのだな…と思った。